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BLOG 私的ノート

新しいプロフィール写真を撮りました

昨日、新しくプロフィール写真を撮りました。

正直、写真撮影があまり得意じゃないというか、面倒で後回しになっていたことのひとつなんだけど、
前に撮ってから2年近くたち、当時は長かった髪もすっかり短くなってるし、ちょっと太ったし、印象変わってるんじゃ?ということがずっと気になっていたのです。

セルフ・プロデュース的なことは苦手であまり興味がないくせに、良くも悪くも虚偽表示はイヤ!みたいなところが私にはありまして。

「はじめまして」の方に、いきなりその方の大切なことの話を聞かせていただくお仕事なので、せめて事前情報と実物のギャップは小さくしておきたいなーという気持ちがあります。

とはいえ、やっぱり公開して使うものなので、それなりにちゃんとキレイに写りたい!という乙女心ももちろんあり、笑
ヘアメイク&写真撮影をまとめてお願いできるスタジオで撮影してもらってます。

前回も今回も、京都にあるLOODYさんというスタジオでお願いしました。
めっちゃスムーズに、うまーくのせて撮ってくださいました!

約2年の変化を見よ!

前に撮ったのが2021年の7月。

こちらが新しく撮ったもの。

自然体バージョンと、ちょっとカッチリバージョン。
カッチリバージョンは、業務委託で受けてるビジネス系の仕事用に使ってます。

正直、「丸っこくなったなー」とは思いますが、今の方が肩の力が抜けてていいんじゃないかと思います。

撮影の緊張度も今回の方が和らいだし、メイクもナチュラルに仕上げてくれてる気がする。

なんというか「こんなもんでいいか」みたいな感じがありますね。
これが今の私。たとえ気に入らなくたって、また撮ればいいのよ、っていう。

緊張して力が入りすぎてしまいそうなとき、「これに失敗があるとしたら何だろう?」って問いを自分に投げることがよくあります。

そうすると、だいたいのことは「生きてるだけで丸もうけ」基準で「あれ?失敗なんてなくない?」って結論になるし、
「いやいや、これだけは死守せねば!」みたいなことがあれば、それだけお守りみたいに片手に握りしめて臨めばいいんじゃないかなと思えます。

気分一新!

さて、せっかく写真を撮ったので諸々のプロフィールを更新したいところですが、そろそろ接骨院に行かねばならないので、またおいおい。

昨日の帰りの電車で居眠りして寝違えたのか、今この瞬間も首が痛くてたまらない…。

写真更新で気分一新して、ブログもまた書けるといいなと思ってます。

では今日はこのあたりで!

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BLOG うつろう風景

吹雪が去って、ようやく明けた?2023年

新たな年がはじまって、もうすぐ1月が終わろうとしています。
遅ればせながら、2023年もどうぞよろしくお願いいたします。

私の2023年、スローなスタートとなっております。

そんななか、10年に一度(ほんとに?)の大寒波が到来し、私の暮らす琵琶湖北部のあたりでも昨日一昨日はかなり吹雪いてました。
ちょうど一昨日の息子のお迎え時間が降りはじめ=吹雪きはじめだったので、「この冬初の雪道運転がハードすぎる!」と半泣きになりながらも、30km/時で無事帰還いたしました。
また経験値が上がってしまった…。

今朝はすっかり晴れて、外を歩いて雪を楽しむこともできるようになりました。
今日は、その雪さんぽの様子と、最近の私が直面していた「長男が学校に行けない2週間」について書いていきたいと思います。

雪さんぽ

雪の日の空気って、本当に「新しい」って感じがします。

ほんの15分ほど歩いただけでしたが、その「新しさ」に触れつづけていることで、なんだか「あ、明けたな」とか「動き出したな」という感じがしてきました。
スローなスタートだと感じていたけど、実は明けるまでのところですごく時間がかかっていたのかもしれない。
ということで、今日は私的には2023年がはじまった日=私正月とします!

しかし、雪の何もかを覆う力ってすごいですね。
雪があることで、いつもは見えないものが見えたり、ちょっと違った自分の感じ方に気づいたり。

地面が雪で覆われていると、いつもとは全然違う場所を歩いていることに気づきます。
この公園には舗装されている遊歩道があるので、ふだんは自動的にそこを歩いています。
でも、真っ白な雪で歩道の境界線も消えてしまうと、そこには未踏の地が続いているだけ。
そういう場所では、心のままに歩くのです。
斜面だと思っていたところが段差だったりして、ズッポリはまってびっくりすることも。

それでも、習慣の外側にいる自分に嬉しくなった雪さんぽでした。

長男が学校に行けない2週間

2週間ほど前のことですが、突然、長男が学校に行けなくなりました。
朝起きて、朝食を食べて、登校の準備をすると、「気持ち悪い…」と吐き気や嘔吐が出てしまう。
最初は「胃腸炎かな?」と様子を見ていましたが、どうもそうではない様子。
朝(しかも学校のある日の朝)になると気持ち悪く、午前中は寝て過ごし、午後になると回復してきて、夕方以降は元気いっぱい。
「明日は学校行けるかな?」と期待して朝を迎えると、やっぱり気持ち悪い…という日々を繰り返していました。

学校に行きたくないはっきりとした理由(いじめとか縄跳びがいやとか)はなさそうだし、朝は本当に不調なようだし、もっと複雑な身体も心も一体になったところで起きている現象だろうと見ていました。
「なんとなく行けない」という感じです。

小児科の受診結果も、おそらく感染症ではないので、自律神経系または心因性の可能性ありとのことでした。
吐き気は低血圧によるものと考えられるものの、何かしら診断を出せるほどの検査結果が出ていないようでした。
要は「しばらく様子を見てみましょう」ということですね。

その頃、私が考えていたことは、
「まぁ、そりゃこの時期は学校行きたくないよねー。寒いし、私も外出たくないもん。」
「ある日突然、ひょっこり行けるようになるんじゃないの?」
「この時期小学校に行けなくても、人生的には大したことはないよね。」
「でも、元気なときには少し家庭学習させた方がいいかな。」
「血圧低いのは遺伝だわ。私も夫も血圧低いし。」
「自律神経のためにも、もう少し体力つけた方がいいかな。私自身も一緒に。」
「家にずっといられると、私自身が自分のやりたいことに集中できないんだよね…」
「私自身のことは犠牲にせずに、できる範囲でできることをしよう。」
「こういう時、家庭は居場所でないと。プレッシャーやストレスは逆効果。」
「あー、また昼ごはん食べさせなきゃ。どうしよ。」
「休みが長引くと、余計に登校への心理的障壁が高くなるんだろうな。」
「学校って場所自体が、だるい>行きたいなんだろうな。」
「『登校しても大丈夫』と思えるような小さな成功体験ができるといいかもしれない。」
「いい加減、わたしも一人の時間がほしい…!」
などなどなど。

無理して学校に行かせなきゃいけないとは思っていないけれど、私としては今の状況は困る。
だから、焦らせすぎないように、できる範囲で登校できるようなサポートをしなきゃな、というところでしょうか。
私自身も疲れたくないので、あまり考えすぎないようにしようと思いつつ、気づいたら勝手に考えちゃうという感じです。

そんなことを考えながらも、状況は変わらないまま2週間が経とうとしていました。
「できる範囲で」と思いつつも、自分の時間を削って、息子の様子を見たり、勉強を見たり、一緒に外に出たり。
今週は、先生からの勧めもあって、ためしに3時間目だけ登校とか、ちょっとした挑戦に誘ってみたり。
私はだんだん疲れてしまって、ちょっと声かけや働きかけはセーブして、しばらくは好きにさせておこうかなと方針転換を検討してきたところ。

ところが、昨夜のこと。
息子が突然、「ママ〜、明日学校行けたら、iPadに釣りスピリッツ(ゲーム)入れてくれる?」と言い出したのです。
「えー?ちゃんと一日過ごせたらいいけどー(ただし我が家のゲームルールの範囲内で!くどくど。)」
と、私は半信半疑で答えました。

すると、なんと今朝、彼は普通に自力で登校していきました。
今のところ、学校からお迎え要請の連絡も来ていません。
釣りスピリッツは、ちゃんと彼の背中を押してくれたようです。
もちろんまだ油断はできませんけど、「え?それでいいの?」ってなんだか拍子抜けした気分です。

この経験から得たこと

なんとなくこの件も「明けた」ような予感を抱いている今、感じていることをふたつほど。

まずひとつは、私は「これは本当に自分が何かしないといけないことなのか?」という迷いを抱きつづけていたなということです。

この2週間、どちらかというと私は「これは彼が自分で乗り越えなきゃいけない壁なのではないか」と思っていました。
そして、「きっと彼はそのうち学校に行けるようになるだろう」とも思っていました。
結果的に、彼は自分でご褒美を設定することで状況を打開したわけです。
だったら私は最初から何もしなくてよかったのでしょうか?

それはNOだと思います。

まず、まだ彼は子どもであるという事実があります。
小学2年生の彼には、自分の力ではどうにもできないことがたくさんあります。
特に対〈社会〉というようなことですね。例えば、専門家に診てもらうとか、誰かと交渉するとか、お金で解決するとか。
まだ知らないことがたくさんあるので、彼の想像を超えた何かが必要なこともあるでしょう。
そういったことを、一緒に話しながら探り、検討し、実行していくことは、大人じゃないとできないことです。
そういったサポートが必要なことがあるのかどうか、あるとしたらどんなことなのかは状況によって変わるでしょうから、コミュニケーションを取り続けてキャッチしていかなくてはなりません。

また、自分で打開策を見つけるにも、そのためには考えるプロセスが必要ということもあります。
彼がご褒美という打開策に至ったのは、彼が彼なりに考えたプロセスがあったからだと思います。
自分なりに考える、そのプロセスを刺激するうえでは、母親と一緒に考えたり、話したり、取り組んでみたりすることは、意味あることだったのではないでしょうか。

一方で、私がやらなきゃいけない「何か」は、もう少し限定されていたのかもしれないとも思います。
勉強を見たり外に連れ出したりして一緒の時間を増やしたことは、私にとっても彼にとっても良い時間ではあったけど、そこまでやらなきゃいけないことではなかったように思います。
甘えん坊だけどひとりの時間も大好きな息子なので、お互いのためにもっと放っておいても良かったかもしれません。

だから、この件については、「自分がやらなきゃいけないことも多少はあるけれど、やらなくてもいいこともたくさんある。だから必要なことを厳選することが大事」ということなのかなと思います。

もうひとつは、先の見えないことはしんどいなということです。

「もっと放っておいても良かった」というのは今だから言えることで、この状況でどのようにふるまうべきか、それがどれだけ続くか分からないと判断しにくいものです。
でも、それって「生きている」ということと同じでは?とも思います。
だって、いつまで続くかわからない人生を、平気で生きているのが人間です。

何が違うんだろう?と考えてみて、「どれだけ終わりを求めるのか」なのかなという気がしました。
どうしてこの状況の終わりを求めるのかというと、自分がしんどいからですね。
以前に読んだ「居るのはつらいよ」的に言うと、登校しない息子という異物がいることで、家庭における自分の居場所が脅かされていたのだと思います。
だから、「いる」のがつらくなって「する」に逃げる。
その結果、「何かをやらなきゃ!」となって、余計に疲れる。
なんだかよくないエネルギー消耗のループがあるような気がします。

ここを打開するためのポイントは、自分の居場所を見つけ直すということかもしれません。
家じゃない場所でいいから、無防備にお尻を預けられる場所に一時避難する。
家を安心できる場所にしたいならば、息子を異物=特別扱いせず、もっと適当に扱って、色々頼って、自分が無理なくいられる状態を作る。
そういうことが、自分の責任で、自分が取り組まなきゃいけないことですね。

そういうことが、先の見えない状況に「いる」ことを続けやすくするのかなと思いました。

これらのことから考えると、同じような出来事が起きたときには、こんな指針が持てそうです。

① 大人のサポートが必要な事柄については、子どもと相談をしながら、親の判断できちんと対処する。
② ①以外の部分は、一緒に話したり考えたりすることで、本人の思考のプロセスを刺激する。
③ それ以上のことは「する」に走らず、自分の居場所の確保を優先する。

また経験値(経験知?)が上がってしまった…!

明日からの日々がどうなることやらわかりませんが、もう少しお尻を落ち着けて付き合っていけそうです。

経験値、上がってますか?

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BLOG 本のトビラ

「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」〜私の居場所〜

「誰かと一緒にいたいと思うなら、まずは自分と一緒にいられないといけないよ」

2年ほど前に、私のメンターコーチがかけてくれた言葉です。
これはしょっちゅう思い出している言葉のひとつなのですが、最近はなにかと「いる」について考え巡らすことが多いのです。

居場所のはなし

最近読んでいる「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」という本に、「居場所」についてこんなことが書いてありました。

「居場所」はそもそも「ゐどころ」といって、「ゐど」には「尻」という意味があるそうです。
「おいど」って、関西にいると今でもたまに聞きますね。
つまり、「居場所」とは「尻の置き場所」ということです。

居場所とは尻をあずけられる場所だ。尻とは自分には見えなくて、コントロールするのが難しくて、カンチョーされたら悶絶してしまうような弱い場所だ。僕らの体の弱点だ。そういう弱みを不安にならずに委ねていられる場所が居場所なのではないか。そう、無防備に尻をあずけてもカンチョーされない、傷つけられない。そういう安心感によって、僕らの「いる」は可能になる。

東畑開人「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」

すごくわかりやすいですね。

いわゆる「生き馬の目を抜く」世界というのは、ひょっとするといつカンチョーされるかわからない世界なのかもしれないですね。
そういう世界で生きる人にも安心してお尻をあずけられる居場所があるといいのだけど。
私の場合、家庭においては文字通りカンチョーの恐れがあり、時々居場所を失いますます。(息子よ!)

このあとこの本では、
何かに完全に身を委ねているとき、「本当の自己」=無防備に無理なく存在している自分があらわれ、それが脅かされるときに「いる」のがつらくなって「する」を始める、と話が続きます。
そうやって生き延びるのだそう。
身を委ねる。頼る。依存。そういうことが「いる」の秘密を握っている。
ひょっとすると、自立だけではうまく「いる」ができないのかもしれません。

「いる」と「する」

この本は、京大出の心理学ハカセが、悪戦苦闘の職探しの末に勤めた沖縄の精神科デイケア施設で「いる」に奮闘するお話です。
セラピーを「する」つもりで就職したのに、デイケアで求められることの大半はただ「いる」ことだった。
何もしないで「ただ、いる、だけ」だと、著者は「穀潰し系シロアリ」になってしまった気がしたそうです。
だから、働き始めた頃は、何かをしているふりをした。
何か「する」ことがあると、「いる」が可能になるからです。
でも本当は、何かを「する」には、ここに「いる」ことが前提になっていたりもする。

ただ「いる」ことの所在なさ、落ち着かない感じって、誰もが経験したことあるんじゃないでしょうか。
会社員のころ、何をすればいいのかわからないミーティングに参加している時って、「この時間はいったい何なんだ?」てモヤモヤすることがありました。
だから、とりあえず懸命にメモをとってみると、なんだかちょっと落ち着いたりして。
場合によっては、だんだん「この場にいるだけで対価発生するなら、ま、いいか」って、居心地よくなったりもする。
仕事においては、報酬の存在が「『する』に向かわねば!」という気持ちに大きく影響する気がします。

それから、携帯電話って、「いる」に「する」を持ち込む発明ですよね。
ただ「いる」ことに耐えられないとき、手元にスマホがあればあっという間に「する」があらわれる。
SNSをチェックするなり、お気に入りの動画を見るなり、仕事のメールを返すなりしていれば、なんだか間がもつ。
むしろ、こうしたデジタル機器によって、ただ「いる」時間はどんどん侵食されているのかもしれない。

また、デジタル化によって、居場所も変化しているように思います。
私たちは、リアルなお尻だけでなく、いろんなバーチャルなお尻も持っている。
それは、居場所の多様化とも言えるけれど、
それぞれのお尻の置きどころを見つけなきゃいけないってことかもしれないですね。

最近のお気に入りの居場所

さて、最近の私のお気に入りの居場所のひとつが、コインランドリーです。
噂のコインランドリー投資なのか、近所に新しくできました。
地味で暗いイメージでしたが、店内は明るく快適です。(地味は否めない!)

ここには靴用の洗濯機&乾燥機があるので、週末に息子たちの上履きを洗いに来ます。
洗濯に20分、乾燥に20分。
洗濯乾燥一体型ではないので途中で入れ替えなければならないけれど、専用洗剤で手洗いよりもピカピカの仕上がりです。

この待ち時間の40分が、私の「いる」時間。
ぐるぐる回る洗濯機たちの音を聞きながら、だいたい椅子に座ってぼーっとしてます。
なんとなく、スマホチェックするのなんてもったいないって気になるのが不思議。
午前中に来ると、ガラス張りの店内はポカポカと暖かく、うとうとうたた寝してしまうことも。

週末の我が家は、子どもたちが家にいて「ママ!」「ママ!」と私に「する」の要求を連発するのです。
それはたいてい「あれとってー」ぐらいの他愛ないものなんだけど、「ちょっと『する』はお休みさせてくれ…」という時、私はそそくさとコインランドリーへ出かける。

私の「する」を機械に預けられることは、居心地の良さの理由のひとつかもしれません。
正直、そんなマストな「する」でもないですけどね。上履き洗いなんて。
でも、「する」への対処という名目があることで、ずっと「いる」がやりやすくなる。
「いる」を取り戻した私は、きれいになった上履きとともに帰宅する。なんかいい感じです。

時間もちょうどいいんですよね。
洗濯機には「あと何分」という表示が出ます。
なんとなく「いる」に飽きても、表示を見て、「あと3分か‥」と「いる」に戻れる。
「あと60分」だと「ちょっと違うことしよかな」とそわそわしちゃいそうですけど。
20分✕2なんて、思ってたよりあっという間です。

それでも、なんとなく本を持って行ってしまうんですよね。読まないのに。
それから、なんとなく自販機で飲み物を買ってしまうんです。喉乾いていないのに。
チェリオの自販機で買った100円のホットミルクティーは、開けてしまったから仕方なく飲むんだけれど、「こいつ、私の所在なさへの不安を受け止めるために今ここにいるんだな」と思いつつ、別に「いる」ために何かに頼ってもいいじゃない、と開き直ったりもする。
そんなことを思いながら、ランドリーの片隅に落ちている誰かのボクサーパンツ(黒字にピンクの水玉)をぼんやりと眺める。
あとはただ「いる」だけで時間がすぎていく。

そういう「いる」時間があることにどういう意味があるのか、明確な答えはちょっとよくわかりません。
「する」よりも前に「いる」があるとか、誰かと「いる」ために自分と「いる」ことなんて考えると、なんとなく大事な気がしますけど。
でも何よりも、自分自身がただ「いる」を求めているときがあるなっていうのが私の本当のところで、いろんなものに頼りながらそれを叶えようとしているだけって気がします。

実はこの本、まだ前半しか読めていないので、最後まで読んだら何かつかめるものがあるのかもしれません!

あなたの居場所はどこですか?

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永遠ではない、私の日課

我が家の次男は4歳児。
まだもうひと踏ん張り、朝夕の保育園への送迎が続きます。

今日は、私の日課であるお迎えのお話。

ひとりで行く道

朝は夫が送ってくれることが多くて、夕方はたいてい私が迎えに行きます。
お迎え=私の閉店時間なので、ため息混じりで向かう日もしばしば。
でも、PCモニタを見つめて座ってばかりになりがちの私の日常では、貴重な「動」の時間でもあります。

田舎なので、保育園までの足は自動車です。
お迎えの時間はいつも変わらず17時半。
同じ時間、同じ車で同じ道を行くと、フロントガラス越しの空に季節がうつろっていきます。
何かの講義で先生が「日本という国では、暦は四季がくれる」って言ってたけど、本当にそうだなと感じる時間。
地軸の傾き、ありがとうございます。

なんといってもいちばん好きなのは、秋。
あっという間に過ぎ去った季節。
夕焼けと夕暮れの間を走りながら、この曲をよく聴いてたな。

ふたりで帰る道

我が家の次男にはロマンチストなところがあって、「ママ、お月さまがきれいだよ」なんて教えてくれます。
ふたりで一緒に、夕焼けやら小鳥やら変な形の雲を眺めながら「きれいだね」と言い合う帰り道は、ちょっと心弾む時間。

先日の帰り道は、打ち上げ花火に遭遇しました。
琵琶湖って、実は花火が多いんです。
でも、こんな早い時間にあるのは珍しいかも。

冬の花火はよいものですね。夜の暗さが違うから。
車で走りながらだと建物に隠れて見えないことも多かったのだけど、
ガード下をくぐって琵琶湖に向けて登る道を進んでいくと、目の前にブワッと花火の空が開けて、なんだかテーマパークのアトラクションみたい。
私も息子もテンションあがって、歓声を上げながら楽しんだのでした。

覚えておきたい景色

とはいえ、もちろん毎日毎日こんなに美しいわけではないのです。
私が泥のようにぐったりと疲れ果てていたり、そんな時に限って息子がぐずったりして、「勘弁してくれ…」と思う日もざらにある。
でも母は、雨の日も風の日も、お迎えだけは行かねばならない…。
たとえその後の夕食がレトルトカレーだとしても、我が家には連れて帰らねばならない…!

長男が小学校に入って送り迎えがなくなったときは、「こんなに楽になるとは!」と感動したのだけど、
この日課もあと2年と少しのことなんだなぁと思うと、しみじみと愛おしい気持ちになります。

車を運転しながら眺めた景色って、写真や動画に残しておけないのが難点ですね。
私と息子を包む空気ごと、アルバムに残しておけたらいいのに。

そう考えると、ふと、この帰り道を覚えておきたいなーと思って、ブログに書いておくことにしました。

あなたが覚えておきたい景色は、どんな景色ですか?

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2023年の手帳のはなし

師走ですね。
自分の周りも内側も、なんだか慌ただしさを感じる時期です。

12月の我が家の子どもたちの日課は、アドベントカレンダーを開くこと。
日付の描かれた小窓を開けると、チョコレートが出てきます。
クリスマスまでのちょっとしたお楽しみです。

ケンカになるのでひとり1箱。右側が、我慢できずに25日を開けてしまった4歳児の箱。

「カレンダー」とは、もともとラテン語のKalendae(ローマ暦の朔)ということばに由来していていて、「勘定を精算しなければならない日」という意味だったそうです。なるほど。
ここ数日、「これで年内最後の○○」といったことが増えてきて、私はなんだかちょっとホッとしています。
「一区切りつけられるな」という感じでしょうか。

先日も、大学の課題の年内最後の提出締切を無事(いや、正直そんなに無事ではないけど)終えて、「年内は締め切りがない…!自由だ!」となりました。
私の大学は3ヶ月単位の1年4学期制なので、1月になったらまたすぐ締切が来るんだけれど、年の瀬の心理的効果は絶大。
暦とは、ちっぽけな人間が雄大な時間を生き抜くための偉大な発明なのですね。

そんな私が「さて、これから何をしようかな」と考えたとき、
「そうだ、新しい手帳をおろそう」と思いついたというのが、今日の話。

わたしと手帳

手帳って、一般的にいつから使い始めるものなんでしょう?

人によっては「毎年1月1日から」「開運日から」なんて決めてるんじゃないかな。
私は特にこだわりなく、思い立ったが吉日派。
でも、毎年微妙に使わないページができちゃうことに「もったいなくない‥?」と思ってしまう。
みんなどうしてるんだろ?

手帳はシンプルなA5サイズ。マンスリーとウィークリーの見開き(左に月〜日、右はフリースペース)だけでいい。
今年は無印で見つけたこちら

右は2022年の「縁起のいい日手帳」。暦についての豆知識なんかが載ってておもしろいんだけど、だんだん読まなくなっちゃった。

ずっと前から、スケジュール管理はGoogleカレンダーにお任せです。
色んなものと連動しながら、ばっちり通知も発してくれて、こいつがいないと社会生活を営めない‥
To DOの管理なんかはタスク管理のアプリでやっています。

じゃ、何に手帳を使っているのか。

それはふたつ。

①マンスリーでざっくりとした過ごし方をイメージ
 Googleカレンダーは概観するには登録されている内容が多すぎるので‥
 主なイベントだけピックアップしておくと、「じゃ、来月はこれしよー」みたいなことを考えやすい気がします。

②ウィークリーで日記未満のふりかえり
 雑多なメモです。やったこととか、食べたものとか、読んだ本とか、聞いた曲とか、感想とか。
 こういうことがあったなーと私だけがわかる、文章になってないやつです。

①は、Googleカレンダーの弱点を補うためにマストな存在。

②は、なんやかんや試行錯誤してて、今はこの形という感じです。来月は違うかも。
以前はもうちょっと「今後に役立つ」ふりかえりというか、教訓やら成長課題やらを引き出すようなことをしようともしたのです。
でもまぁしんどいから続かないですね。私にはちょっと息苦しかった。

今の形になってからも、一応毎週末にリマインダーを設定しつつ、気づいたときに書いてます。
忙しかったら平気で2〜3週間飛んじゃうんだけど、そんな時は「ふりかえりができる日々に戻ってこれてよかったねー」と、とりあえず戻ったことを喜んでおきます。
後から見たらその空白も「この時はそういう時期だったのね」という足跡なので、無理して埋めなくてOKということにしている。

手帳とは、そんな感じで付かず離れず付き合っています。

「人生はドラマではないが、シーンは急に来る。」

ここまで書いてみて、私には工夫しながらも手帳と付き合いたいという意思があるんだなーと気づきました。
だって、マンスリーだけなら壁掛けカレンダーでもいいじゃない。

手帳を使い始めたのは、3年ほど前のコーチングを始めた頃のこと。
(その前は「あんなアナログなもの、要らんし」と思ってた。笑)
はて、何か関係があるのかしら?

そう思い巡らしたところで、頭の中に浮かんできたのがこのことば。

人生はドラマではないが、シーンは急にくる。
わたしたちはそれぞれに様々な人と、その人生ごとすれ違う。だから、花やうさぎや冷蔵庫やサメやスーパーボールの泳ぐ水族館のように毎日はおもしろい。

くどうれいん「うたうおばけ」

くどうれいんという歌人のエッセイ集で見かけたことばです。

ドラマというのは、シーンのつながりでできています。(たぶん)

人生はドラマではないので、
オープニングからからエンドロールに向けてまっすぐ進んでいくわけではないし、筋書きもなければ演出もない。
もっとごちゃごちゃぐるぐるしていて、回収されない伏線だらけかもしれない。
でも、シーンはたくさんある。
そして、それは急にくる。

そして、私が手帳を使って②でやりたいことって、自分の人生にあるシーンに気づくことなんじゃないかという気がします。

私の日記未満のメモって、こんな感じです。
 「手帳おろす スタバ トールラテ 腰痛い ソングライン 耳鼻科tel」
よくわからんけど、「手帳をおろす」というdoingだけじゃなくて、場所とかその時の感じとか、行くまでに聴いてた音楽とか、そういう色々なものをクロスさせると、なんとなくシーンが立ち上がってくる気がしません?

このメモ、もちろん後日改めて読むこともあるんだけど、それよりも書きつけておく行為とその時間が大事だと感じていて。
それって、自分の経験について「話すこと」と同じかもしれません。
自分の中にこういうシーンがあったということに気づいて、認めて、とどめておく。
そういう行為です。

シーンは急にくるから、そのシーンの意味は今はわからなかったりする。
そういうもんだと思います。
すでに大事だとわかっているものだけが、本当に大事なわけではないはず。
自分の中にちゃんととどめておけば、未来の自分がなんとかしてくれるでしょう。

2023年、いったいどんなシーンがくるんだろう?
今から楽しみですね。

あなたには、どんなシーンがありますか?

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BLOG 人生にコーチングを!

「自由にはばたく」ために自分を信じる

この記事では、実際にみみをすますラボで継続セションを受けてくださったクライアントの声をご紹介させていただきます。

リアルな体験談から、「コーチングを受けたら実際にどんな変化があるの?」という疑問にお答えします!

クライアントご紹介

今回ご紹介させていただくのはNさん。

3児の母で、育休中に「これからのキャリアを考えたい」という思いからセッションを開始してくださいました。

セッションを受け始めた頃は、「転職は色々検討してから、まだ先のこと……」という雰囲気だったのですが、
セッションが進むにつれてどんどん行動が促進されていき、
その結果、元の職場への復職を待たず、キャリアアップ&ご自身に合った素晴らしい職へと華麗な転職を決められました。

圧巻の成果に「私ってすごいコーチ?」と勘違いしてしまいそうになりますが、
いえいえ、Nさんがご自身の実力を発揮されただけなのです。ほんとに。
Nさんに拍手!

クライアントの声

Nさんからは、こんな体験談をお寄せいただきました。

3人目の育児休暇中に、キャリアの棚卸をしたいと思いつつ、
日々の育児家事に追われて、なかなか自分の時間を持てずにいました。
そこで思い切って、3月からコーチングを受けることにしました。

最初のセッションでは、全体(8回)のセッションの題名を決めました。
ぱっと浮かんだ言葉が「自由にはばたく時間」。

「〇〇をやらないといけない、△△もやらないと」と、
3人分の子どもたちのTODOを背負い、
5年ほど子ども中心の生活をしていたからです。

「未完了の完了」という概念を教えていいただき、
頭の中にあった3人の子どもたちのTODO(予防接種、保育園申請など)や、
自分がやりたいことを、すべて書き出しました。
週に1回メンテナンスをして、その週に実施することを確認するようにしたところ、
驚くほど、自分の頭がすっきり。

転職活動を含めて、キャリアの棚卸をすることが、
今回のタイミングでは、私にとって一番大事なことが見えてきました。

2回目のセッションで、「転職活動してみようかな、うーん」と言っていると、
ゆきこさんから、「何を恐れているんですか?」と聞かれて、
具体的に恐れるものはないことに気付かされたり。

ゆきこさんの一言で、新たな視点を得たり、背中を押してもらったりして、
転職活動をはじめ、8月から新しい職場で働き始めることになりました。
(ゆきこさんには、面接対策にまで付き合っていただきました。
 面接官より厳しくつっこまれました(笑))

セッションを経るごとに、ゆきこさんが一緒に、私の内なる声を聞こうとしてくれている
と感じるようになり、私自身も自分の声に敏感になってきました。
そして、悩む時間が少なくなり、行動のスピードがあがってきました。

今回の「自由にはばたく時間」。
やりたいことを自由に発想してみたものの、
現実的には無理かなと思っている自分がいる。
取捨選択、優先順位は必要だけど、「私ならできる」と
自分を信じることが「自由にはばたく」ための
必須条件だなと思い始めたところです。

これからも自分の内なる声に耳をすませていきたいです。

私からのメッセージ

私には、Nさんとのセッションでとても好きな時間があります。

それは、私が質問をさせていただいたあと、
ひとつひとつの質問に「うーん、そうですね……」と考えているNさんを
「どんな答えが出てくるのかな」とワクワクしながら待っている時間です。

なんというか、Nさんは、私が投げかけた問いを、初めて考えることかのように考えてくださるんです。

私が質問する内容は、Nさんにとって必ずしも初めて考えることではないだろうと思います。
(もちろん私も色々と工夫してますけど!)

人は、過去に考えたことのあることを問われたとき、考えると見せかけて、過去に考えた内容を参照して答えることがあると思います。
私はあります。
「考えるまでもなく、わかってますよ」って態度で答えてしまうんですね。

人間の記憶や脳っていうのは、効率よく多くの情報を処理できるよう、そういうふうにできていると聞いたことがあります。
それが普通というか、人間にとってやりやすい、楽な対応ってことです。

でも、Nさんはそうではなく、ひとつひとつ新しく考える。

何があるからそんなことができるんだろう??と想像してみると、
おそらく「過去の自分を越えていく」意志なんじゃないかと思います。

今の自分を知ることって、過去の自分を参照するより怖いことですよ。
だってナマモノですもの。未知のことです。過去の自分の方が良く感じられるかもしれない。

でも、「過去の自分を越えていく」意志を持って、今の自分の声に耳をすまし、今の自分を確認する。

そういうことの積み重ねが、Nさんの「私ならできる」と自分を信じることにつながっているんじゃないかなぁと思います。

そして、さらにすごいことには、
何度も何度も新しく考えても、Nさんの答えには揺るぎないビジョンがあるんです。

なんて誠実でかっこいいんだろうと思います。

ビジョンがあるって、やっぱり強いんですよね。
途中からは、持ち前の推進力でビジョンに向かってすごい勢いで進んでいきました。
私もさすがに、この期間で面接対策して転職決まるところまで行っちゃうなんて予想してなかった。笑

とはいえ、Nさんのビジョンは大きいので!

今もその実現のためのプロセスは続いています。
まだまだこれから自由にはばたいてただかないと!
私としては「ビジョンの実現まで見届けさせていただきますよ!」という気持ちでおりますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします(^^)

さいごに

コーチングでは、「ビジョンは描き続けるもの」と言われます。

過去に描いたビジョンをこっそり胸の中にしまっておくのではなく、
セッションで話すことでどんどん更新していくことが、その実現に向けた行動を起こすエネルギーの源泉になっていきます。

「私にはビジョンなんて…」という方も、まずは目の前の物事を整理して、自分の内なる声にみみをすますことからはじめてみてはいかがでしょうか。

かく云う私も、最近ようやくおぼろげながら先のビジョンをイメージするようになってきました。
(もちろん個人差はありますが、ここまで3年かかりました‥。)

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BLOG うつろう風景

つまるところ、変わり続けるものの「今」が好きなのです

暑くなったり雨が続いたり、不思議な夏の気候ですね。

私は、次男の虫歯騒動が勃発したり学業に追われたりする日々を過ごしています。
久々となったこのブログでは、ゆるりと近況について書いていきます。

ピラティスのパーソナルトレーニングのこと

初めてコーチングを受けていただいた方の感想として、「楽しかった」と「頭が疲れた」をよくいただきます。
「頭が疲れた」と言われると、私はムフフとしてしまい、「そうそう、それが頭のコアマッスル!思考の体幹トレーニングですよ!」と言ったり言わなかったりするのですが、
そんな私は、この春からピラティスのパーソナルトレーニングを受け始めました。

パーソナルトレーニングは、もちろん費用はそれなりにかかりますが、自分には合っている良いものだと感じています。

まず第一に、トレーナーがちゃんと見てくれているということ。
私個人をしっかりと見たうえで承認したりトレーニングの提案をしたりしてくれることが、私のモチベーションやトレーナーへの信頼につながっていると感じます。

それから、トレーナーがいるから自分の枠を超えられるということ。
今どき、ピラティスだけなら動画でも何でもやる方法はいくらでもあります。
でもそれだと、できそうなことばかりやってしまったり、逆にわけも分からず難しいことをやって挫折したり、そのときの自分に必要な枠を超えることが難しいことがあります。
その点、ちゃんと見てくれているトレーナーは、私に適切な挑戦を促してくれます。
「自分ひとりならこんなしんどい動きしませんけど!」ということも、トレーナーが背中を押してくれるからやろうと思えます。

そして、やっぱりできると嬉しいということ。
できると思っていなかったこと(そもそもやってみようとすら思っていなかったこと)をできると嬉しいんですよね。
「できる」というのは、自分自身で確認できることもあれば、トレーナーが「今きれいにできてたよ!」と言ってくれることでわかることもあります。
自分の身体の使い方の癖は自分自身では気づかないことが多いものなので、「変わってきたよ」と言ってもらうことで実感できる変化があります。

これらはコーチングとも共通していることですね。
そして、トレーニングを通して、(望むと望まざるとに関わらず)変わり続ける自分の身体への興味関心も高まっているような気がしています。
その興味関心は、コーチングの持つ「楽しさ」とも関連することなんじゃないかと思います。

無鄰菴の庭園のこと

最近、庭園というものが気になっています。

今まであまり考えたこともなかったのですが、庭は「生もの」なんですよね。
いつどんな背景で作られた庭であっても、目の前にあるのは「今の庭」である。
その美しさは、今この瞬間に自然から生み出されるものであり、様々な歴史や環境といった状況から立ち上がるものでもある。
そういうところが興味深いなーと思っています。

こちらは、京都の南禅寺にある無鄰菴の庭園。
明治期に山縣有朋の別荘として作られた庭です。

庭には枯山水よりも本物の水があってほしい。池よりも川だとなお良し。
そんな私にとって、こちらのお庭は最高です。
夏の小川と青紅葉も本当にきれいでしたが、四季折々の美しさがあること間違いなし。
カフェでお茶をいただくこともできるので、南禅寺界隈の観光スポットとしてもめっちゃおすすめです。

変な感想ですが、この庭を歩いている時に「むむ、これはあれだな」と思い出したのは、東京ディズニーランドのイッツ・ア・スモールワールドでした。
共通点は何なんだろう‥
なんだか、すごく童心に帰る感じがするんですよね。
奥へと探索しながら進んでいくワクワクする感じとか、その途中で美しいものや珍しいものを発見する驚きの感じとか、ノスタルジックな憧憬(山縣有朋は故郷の風景を再現しようとした)とか。
あと、縮尺がバグってるの(実は意外なほど狭い)も共通点ですね。
でも、一番は明るくわかりやすいエンターテインメント性みたいなものかもしれません。
なんだかとても「近代」って感じがします。

そのあたりはもう少し学んでみたいなと思っています。

くるりのライブのこと

くるりのライブに行ったことも、忘れちゃいけない近況です。
このところもっぱら配信ばかりだったので、久しぶりのライブハウスに感動していました。
身体にダイレクトに響く音の幸せよ…!生きててよかった!涙

特にこの曲が、とにかく変態的に超絶かっこよかったのです。

くるり Tokyo OP

こんなバキバキな曲の完璧な演奏を生で見られるなんて最高の一言なのですが、
なんといっても石若駿のドラムが素晴らしくて、「阿修羅かな」と。笑
今でもこの演奏を思い出すと、この敦煌莫高窟第249窟の天井画の阿修羅や神々が、びじゅチューンのように舞い踊るイメージが脳裏に蘇ります。
びじゅチューン好き。MOA美術館の井上涼展行きたい…。

敦煌莫高窟第249窟の天井西画。6世紀中頃の中国(西魏)の壁画。阿修羅の両脇には風神雷神がいます。

ライブを通して受け取っていたことは「続く」というイメージで、
開かれた道や旅の途中の「今」であるということ、
常に新しい「今」を生きることで変わり続けて進んでいくのであるということ、
そして「変容しながら続く」ということが変わらないこととして存在し続けているのだということでした。

だからこそ今この瞬間に生まれているとんでもなく素晴らしいものを目撃して、私はその揮発性の高さに少し途方にくれてしまう。
この感じはなんだろな?とよくわからないのだけど、きっと自分にとっては大事なことなのだと思います。

ここまで書いてみて思ったのは「つまるところ、変わり続けるものの『今』が好きなんでしょ」ということで、
それは間違いなくコーチングをやっている理由のひとつでもあると思います。

でも最近は、その「今」に触れた時に「私はどうすればいいんだろう」という思いも生まれていて(特に芸術に関する時)、それはこれからの私の問いなのかもなぁという気がしています。
まぁ、それが私の「今」ということですね。

あなたの「今」はどうですか?

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BLOG 芸大生日記

美術資料の読み方を学ぶと手に入ることは?

この春から大学生になりまして、課題やら試験やらに取り組む日々も3ヶ月目に突入しました。
先日、あまり乗り気じゃなかった美術資料の読み方を学ぶ講義を受けることで、知ること・学ぶことの意味を考える機会がありました。

はじめてのスクーリング

先日、はじめてのスクーリングがありました。

通信制大学での学びは、自宅学習とスクーリングで構成されています。
スクーリングとは、簡単に言うとライブの講義のことです。
だいたい土曜の午後と日曜に、1.5日間の集中講義の形で開催されます。
キャンパスで行われることもあれば、Zoomで遠隔開催されることもあります。
講義の内容によっては、京都の寺院や庭園などに実際に行くフィールドワークもあります。

先日はZoomの遠隔講義でしたが、学友と一緒に講義を受けていると「あぁ、大学生になったんだなぁ」という気持ちになるものですね。

受講したのは「美術資料の読み方」の日本・東洋編ということで、こんなのを読み解いてみましょうという講義です。

《伊勢物語絵巻》初段(和泉市久保惣記念美術館蔵)
法隆寺金堂 《釈迦三尊像》 光背銘文

左のミミズみたいなのが変体仮名文字で、右の拓本は漢文です。

漢字は仏教とともに朝鮮半島経由で中国から入ってきました。
だから、そもそも外国語なんですよね、漢文は。
もともと日本国内では日本語が話されていたわけなので、その日本語の音に漢字を当てたの仮名文字ですね。要は当て字です。
当て字だから、ひとつの音に対して複数の漢字がある。
たとえば「あ」という音を表すのは「安」でも「阿」でも「愛」でも「悪」でも良くて、そのうち明治以降の学校教育で用いられなくなったものが変体仮名です。
その変体仮名を含む仮名文字で、ミミズのようにニョロニョロと崩されて書かれているのが、よく絵巻物とかにあるあれです。

漢文も変体仮名も、当然今の日本語とは違うので、読み方によって解釈が変わってくる。
だから、研究をする人は一次資料の基本的な読み方の習得が必要ですよという話です。

正直、「マジか~!!!」って思いますけどね。なんたる面倒臭さ。
でも必修なもんで。
意識が飛びそうになりながらも、とりあえず素直に講義を受けてみました。

美術史を学ぶことの意味

2日目の講義で主に扱われたのは、聖徳太子と法隆寺についてでした。

聖徳太子は謎の多い人物として知られています。
没年に関する資料も、『日本書紀』では621年、『上宮聖徳法王帝説』という聖徳太子の伝記を集めた資料によると622年と残されています。
様々な資料を検証した結果、今では622年説が有力だそうです。
いや、どっちでもわたしの人生には関係ないしって気もしますけどね。(先生も何度もそんなこと言ってた…笑)

法隆寺には「再建非再建論争」という、日本史研究界隈では非常に有名な論争があります。
現存の法隆寺は最初に建てられたものなのか、それとも焼失後に再建されたものなのか、明治以降に東大の先生方を中心に喧々諤々の論争があったという。
今では発掘調査の結果もあって再建であることが判明しているそうですが、こちらも正直、そんな昔のことにはあまり興味を持てない気がしてしまいます。

そう、個別の事象はわたし自身には直接的な影響も関心もないように思います。
正直な話、わたしはそこまで美術史の細かいところに興味あるわけではないのです。
(芸術理論や美学に興味があって芸術学コースというこのコースを選びました。)
だから、この講義を受けるのはなかなかしんどかったのですが、先生の話を聞いているうちに、じわじわと感じてきたことがありました。

それは、「なんだって疑っていいんだな」ということです。

たとえば、『日本書紀』は日本最古の勅撰国史、つまり、天皇の命によって編纂された正統な歴史書です。
『日本書紀』を否定するなんて、時代が時代なら生命にかかわることだったはずです。

法隆寺だって、過去の権威のある人たちによる定説があります。
みんながあたりまえにそれを信じて、その定説を前提に色々なことを考えています。
覆すのは並大抵のことではありません。

でも、なんだって疑っていいのです。
疑うことでひらける新たな可能性があるかもしれないのです。

そこには、やみくもに全てを疑うのではなく、
自由と可能性を信じるからこそ「あたりまえ」を疑うアカデミックな姿勢があるのだなぁと
なんだかちょっと感動したのでした。

リテラシーは「あたりまえ」を疑う力

では、どうすれば「あたりまえ」を疑うことができるのでしょうか?
何があれば「あたりまえ」を疑って新たな可能性をひらいていくことができるのでしょうか?

わたしは、そのために必要なもののひとつがリテラシーなのだと思います。

リテラシーとは、簡単に言うと読み書き能力のことです。
辞書には「コンピューターや情報を、うまくあつかう知識・能力」ともあります。

わたしは、最初の大学(20年前!)でメディアの勉強をしていたのですが、そのころ耳にタコができるほど「メディア・リテラシーが大切!」と言われてきました。
メディア・リテラシーとは、メディアの情報を主体的に読み解く力というような意味です。

たとえば、わたしはアラビア語はさっぱりわからないので、誰かに「このアラビア語は『ゆきこ』っていう意味だよ」なんて言われると、それを鵜呑みにしてしまいます。
そして、それをお名前シールにして持ち物に貼り付けちゃうかもしれません。
でも、実はそれは全くの間違いだったり、とんでもなく恥ずかしい意味をもった字だったりすることもありますよね。(たまに見かける変な漢字Tシャツのように)
リテラシー=読み解く能力がなければ、それを検証することすら難しいのではないでしょうか。

リテラシーがなければ、本当の意味で信じることなんてできないんじゃないかなとわたしは思います。
自分で読み解くことができなければ、言われたことをそのまま盲信することしかできません。
本当にそうなのかな?と疑って、検証して、やっぱりそうなのだと確信するプロセスがあってこそ、心から何かを信じることができるのかもしれません。

だから、変体仮名も漢文も自分で読み解く能力が必要なのですね。
もちろん、そういった対象を研究するならば、の話ですが。(わたしの場合、どうかな…??)

「わたしは、わたしに対するリテラシーを十分に育んでいるだろうか?」

さて、視点をコーチングにうつしてみましょう。

そうすると、コーチングってリテラシーを育むことなのかもしれないという気がしてしました。
自分と世界を読み解いて、うまく付き合うためのリテラシーです。

いま眼の前にあることだけが「あたりまえ」なのではなく、違う見方や考え方、新たな解釈の可能性があること知ることで、リテラシーは強化することができます。

知ることは、よりよく信じることにつながります。
自分と世界をよりよく信じることができれば、その先の人生の可能性は大きくひらかれていくのではないでしょうか。

「わたしは、わたしに対するリテラシーを十分に育んでいるだろうか?」

その問いをいつも胸に抱いて生きていきたいなと思った、スクーリングの週末でした。

あなたは、あなたに対するリテラシーを十分に育んでいますか?

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NEWS その他

サービスメニュー改定のお知らせ

このたび、みみをすますラボではサービスメニューの改定をいたしました。

気軽に始めていただける月額プラン新設のほか、クレジット決済の導入など、よりご利用いただきやすいサービスになっております。

https://mimiwosumasu-lab.com/service/

《主な変更点》

  • 45分のセッションを毎月1回または2回受けていただく月額プランを導入いたしました。まずは始めてみたい方、継続的にコーチングを活用したい方におすすめです。
  • 銀行振込のほか、クレジットカードでの決済をご利用いただけるようになりました。
  • 45分のセッションを中心としたシンプルなメニュー構成に変更いたしました。30分、60分のセッションをご希望の方は、カスタマイズプランにて承ります

ご不明な点がありましたら、どうぞお気軽にお問い合わせください。

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BLOG コーチングといううつわ

コーチングでは“落としどころ”を用意しない?

コーチが“落としどころ”を用意しないことは、コーチングの特徴のひとつです。

「え?“落としどころ”なしで大丈夫なの?」ということを、少し考えてみました。

コーチは“落としどころ”を用意しない

先日、とあるコーチング本を読んでいたら、こんな記述がありました。

LESSON 06 コーチングの達人に向けて
SKILL51 “落としどころ”を用意しない

 コンサルタントとカウンセラーとコーチの違いについてきかれることがよくあります。
 コンサルタントは“行動を提案する”ことが特徴のひとつでしょう。カウンセラーは“ある心理状態を引き起こしている理由をクライアントから引き出す”のが特徴といえるでしょう。
 コンサルタントもカウンセラーも“相手をこういうところへ導きたい”という落としどころはちゃんと持っているのではないでしょうか。


 それに対して、最後の最後まで「で、あなたはどうするの?」ときき続ける、まったくなんの落としどころもなくクライアントに立ち向かっていくのはコーチの最大の特徴といえるでしょう。

鈴木義幸「新コーチングを人に活かす」(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2020年)

コンサルタントやカウンセラーとコーチの違い、たしかによくきかれることです。
私自身も、コーチングを受けてくださる方にはガイダンスで必ず説明するようにしています。

いつもはこんな感じの表を使って説明しています。

この落としどころの有無というのは、シンプルで的を得た、すごくわかりやすいポイントだと思います。

最近、優秀なコンサルタントの方たちとお仕事させていただく機会があったのですが、彼らは常に自らの仮説を構築し、検証しながら、コミュニケーションを取るように訓練されています。
その姿勢は、コーチングとは別物だけど、プロフェッショナルとしてかっこいいなと憧れます。

クライアントも“落としどころ”を用意しない?

では、コーチングのクライアントはどうなのでしょう?

コーチングは、コーチとクライアントのふたりでつくるものです。
コーチが“落としどころ”を用意していないのならば、クライアントが用意しておかなくてはならないのでしょうか。

答えはNOです。

クライアントも“落としどころ”は用意しません。

たしかに、テーマやゴール(そのセッションで手に入れたいものや状態)はクライアントが用意します。
そのゴールに向かって「で、あなたはどうするの?」ときかれつづけることで、
クライアント自身が予想もしていなかった答えが出てくるのがコーチングです。

クライアントはテーマやゴールは用意するけれど、“落としどころ”は用意しないんですね。

“落としどころ”はなくても、“至るところ”はある

コーチングでは、コーチもクライアントも“落としどころ”を用意していません。

セッションはただのおしゃべりではありません。
価値ある対話の時間です。
そして、時間は限られています。

“落としどころ”を用意していなくても大丈夫なのでしょうか?

はい、大丈夫です。

なぜなら、“落としどころ”を用意しなくても、“至るところ”はあるんです。

コーチングセッションの終盤では、必ずそのセッションのふりかえりをします。

コーチはクライアントに問いかけます。

気づいたこと。
手に入れたこと。
変化したこと。
この時間でどこまで進んだのか。

セッションで至った現在地を確認し、さらにそのさきに向かって問いかけます。

「で、あなたはどうするの?」

コーチングには“落としどころ”はありません。
話すことで至った、“今”があります。
それは、そのさきにずっと続いていく学びと成長のプロセスの一部なのです。

みみをすますラボでは
あなたと わたしが みみをすまし
ふれあい、うつしあい、ひびきあう、
そんなコーチングを提供しています。

あなた自身に、あなたの世界に、一緒にみみをすますことから始めませんか?
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