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くるり『東京』

最近よく、「コロナが落ち着いたらどうしたい?」とか「何の制限もなかったら何したい?」なんて聞かれることがあります。
私はだいたい「ライブに行きたい」と答えます。

そう、ライブに行きたいですね。

野外フェスでもいいけど、やっぱりライブハウスに行きたいです。
密で、薄暗くて、なんだかよくわからん蒸気がモワモワしてて、その向こうにステージが輝いている。
そんなライブハウスに行きたいですね。
ライブハウスにはひとりで行きたいです。
周りには、温度を感じられる知らない人たちがたくさんいて。
イントロが始まったら、思わず「おーっ」と声を漏らしちゃったりして。
隣にいる知らない人と、目を合わせて笑い合って、喜びを分かち合いたいですね。
そして、ライブが終わったら、それぞれの家路に着き、それぞれの日常を生きたいです。

まあ、今もライブやってますよね。色々配慮しながら。
主催側からしたら「そんなに行きたいなら来なさいよ」って感じだと思うんですけど。
でも、昔みたいな気軽な感じでは行けない。
その腰の重さは私の問題でもあります。うん。重いのです。

なので、最近はオンラインで見てます。
本当に手軽でありがたいことです。
無観客だと全然別物ですけど、それでも「今」を感じられるのはありがたい。


先日、くるりの「京都音楽博覧会2021」(音博)というイベントに参加しました。
オンラインの配信イベントです。
名前の通り、毎年京都で開催しているイベントなのですが、去年からオンライン化しています。
無観客で編集も入ってるので、ライブ配信というより音楽イベントという感じです。
前半は最新アルバムの曲を楽団形式で、後半は立命館大学の学生会館からバンドセットで演奏していました。

セットリストというものが好きです。
セトリ。演目のリストですね。
始まる前から「今日は何演るんだろ?」とワクワクして、予想の外れる展開でもそれはそれで興奮して。
今この場のために、その曲を選んだのだということに、強いメッセージの存在を感じます。
オンラインでライブを観るようになってからは、気に入ったら自分でプレイリスト化して何度も反芻しています。

今回の音博は、公式からセトリのプレイリストが出てました。
後半のバンドセットの方です。

最近のくるりのセトリは、ロック色が強くてすごく好きです。
私、くるりというか、岸田繁のファンなんですけど、
近年は、彼のこと、心の中で「岸田先生」って呼んでたんですね。
大学の先生してるし、交響曲とか作ってるし、見た目は南こうせつみたいになってきてるし。
でも、最近のくるりを見てると、やっぱり彼は私のロックスターだなって思います。
なに恥ずかしいこと言ってるんだって気がしますが。
やっぱり彼はロックスターです。

このセトリからは、重苦しさの向こうに、それでも生きる力を感じさせられました。
本当に好きなが曲いっぱい。
「ハローグッバイ」「HOW TO GO」「奇跡」。暗いけど、「窓」も好き。「ハイウェイ」に救われるなあ。「GO BACK TO CHINA」や「花の水鉄砲」は、ライブで観ると本当にかっこいい。
そして「東京」。


「東京」という曲のことを書きます。

「東京」は、くるりのメジャーデビュー曲です。1998年のこと。
くるりって、今年が結成25周年なんですって。すごいですね。

私が最初に聴いたくるりの曲は、この「東京」です。
高校生の頃、当時お付き合いしていた方にこのCDをもらいました。
何度か聴きましたが、当時の私はメロコア好きのキッズでして。情緒よりも衝動。
なので、当時はそんなにピンと来なかったんですね。

それから何年かして、たぶん、2004年じゃないかな。
COUNTDOWN JAPANっていう年越しフェスで、初めてくるりのライブを観たんですね。たまたま。
それが、まあ、もう、衝撃的で。
その時のセトリの最後の曲が「東京」でした。
その演奏を観て、本当に、「こんなにかっこいい人が存在するのか…!」と思ったんです。
完全にあの場に君臨してましたね。彼の支配する世界です。
大サビ前の間奏の、あのギターがギュイーンってなった後の溜め。あそこで時間止めてますもんね。
すごいんです。私の語彙力も足りないけど、かっこよさが言葉を超えているわけです。
まあそれで、それからずっと、私はくるりの、岸田繁のファンなんですね。

で、今の「東京」。
年月が経ち、最近の「東京」は、昔よりもかなり淡々とした風情となっています。
私が一目惚れした、あの間奏のギュイーンってギターも、今はやらないです。
ヴォーカルも高音は張らないし、全体的にさらっと流す。
一方、ラストの「ラーパーラーパパッパ」というバックコーラスは、祈りにも似た切実さを帯びている。

その変化によって、私はこの曲に、なんだか普遍的な趣を感じているのです。
「東京」って、離れた人を想う曲だと思います。
ラブ・ソングです。東京で、京都にいる好きな人を想う曲です。
でも、ラブ・ソングってね、私の中からはだんだん共感がなくなってきている気がします。残念ながら。
そして、どんどんノスタルジックな代物、リアルではない代物になってしまうというか。
たまに聴くと、良いなと思うんですけどね。

今の「東京」は、恋愛的なテンションの高さがなくなっていって、
私たちの日常の中に溶け込んでしまった離れ離れと響き合っている気がします。
特にコロナ以降、私たちの日常にとって、離れ離れは当たり前のものになってしまいました。
そして、私たちは、その離れ離れに随分と慣れ、諦め、適応し、新しい暮らしのなかで前に進んでいます。
そこには、なんだか忘れてしまう、慣れてしまって感じなくなってしまう、そんな想いがある気がします。
それは、寂しさややるせなさ、苦しさ、もがき、怒り。そういう想いです。
理性的には、「そんな想い抱いても仕方ないし…」と処理した方が生産的かもしれない。大人の対応かもしれない。
でも、私は、自分の中にそういう想いがちゃんとあることに気づきたいし、時々はそういう自分とも一緒にいたいと思うのです。
今の「東京」を聴くと、私はただ、「ああ、そういう自分がいるな」と感じることができます。


私、ロックスターが27歳で亡くなる時代の人じゃなくてよかったって思うことがよくあります。
ずっと好きだと思い続けられるバンドなりアーティストなりがいて、ずっと現役で表現活動を続けてくれていて、それをずっとかっこいいと思っていられるなんて、本当に幸せなことです。

そのアーティストと、今この時代を共に生きているからこそ、感じられること、受け取れることがあると思います。
そういう存在がいることに、私はただただ心から感謝しているのです。

久々にMV観たら、あまりの若さに「うわーっ」となりました。
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一瞬の奇跡的な交差について

このブログでは、自分の好きなものについても書いてみたいなと思ってます。

でも、私には、自分が何かを好きと言うことをしんどく感じた時期がありました。
たぶん母親になってから。自分の時間や好きなものに触れる時間が少なくなっていたころ。
元来、何かを好きになると徹底的に愛とエネルギーを注ぎがちな方だったので、その変化からくる戸惑い。

その時感じていたのって、「自分なんかが好きと言うなんて…」ってことだと思います。
世の中には、自分よりもそれを好きな人たち、詳しい人たち、夢中になっている人たちがわんさかいる、とか。
その好きだと感じる対象に対して、好きではあるけれど昔ほどの情熱はないかもしれない、とか。これからもいつまでも好きだとは限らないよね、とか。
要は、他者と比較し、過去に縛られ未来を恐れていたわけです。
好きに対して、変に真面目。

そんな私に、詩人・最果タヒさんのあるブログが刺さりました。

このブログで最果さんは、書き手の立場から

  • 書き手によって書かれるものの変化は、自然発生的に起きるものである。
  • 一瞬でも好きだと思ってくれたことは、奇跡的な交差だと思っている。
  • 「なんか好きじゃないかも」ってなった時は、気にしないで。

ということを書いていらっしゃいます。

これを読んで、私は「そうか、これでいいのかー」と許されたような気持ちになりました。

自分の中でぐるぐる思っているようなことが、自分の外側にある言葉になった時に、初めて素直に受け止められることがあります。
そして、それを誰が言っているのかも大事なことだったりします。
たぶん、表現者が「ええんやで」って言ってくれてことが大きかったのかなと思います。
私が好きになるものは表現に関わるものが多いし、例えば一杯のきつねうどん(一番好きな食べ物)でも、誰かが心をこめて作っているのであれば、それは表現物であり、誠実に関わりたいと思ってしまう。
だから、良いファンでありたいという気持ちが強いし、同好の士にも良いファンであると思われたいような気がする。

でも、好きっていうのは、一瞬の交差なのです。しかも、奇跡的な。
その交差が生まれたということこそが、重要であり、絶対であり、誰にも、自分にも否定できない事実なのです。
今も昔もずっと好きっていうのは、それに触れる度に交差が生まれ続けているということだから、こりゃもうとんでもない奇跡ですね。
そういう存在があることに、心から感謝しましょう。

何もかも好きでなくても、最新もすべて好きでなくても、相手の変化を受け入れられなくても、「好き」と思ったときの「好き」は、ずっと永遠です。

そういう想いで、好きなもののことを書いていきたいと思っています。