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「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」〜私の居場所〜

「誰かと一緒にいたいと思うなら、まずは自分と一緒にいられないといけないよ」

2年ほど前に、私のメンターコーチがかけてくれた言葉です。
これはしょっちゅう思い出している言葉のひとつなのですが、最近はなにかと「いる」について考え巡らすことが多いのです。

居場所のはなし

最近読んでいる「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」という本に、「居場所」についてこんなことが書いてありました。

「居場所」はそもそも「ゐどころ」といって、「ゐど」には「尻」という意味があるそうです。
「おいど」って、関西にいると今でもたまに聞きますね。
つまり、「居場所」とは「尻の置き場所」ということです。

居場所とは尻をあずけられる場所だ。尻とは自分には見えなくて、コントロールするのが難しくて、カンチョーされたら悶絶してしまうような弱い場所だ。僕らの体の弱点だ。そういう弱みを不安にならずに委ねていられる場所が居場所なのではないか。そう、無防備に尻をあずけてもカンチョーされない、傷つけられない。そういう安心感によって、僕らの「いる」は可能になる。

東畑開人「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」

すごくわかりやすいですね。

いわゆる「生き馬の目を抜く」世界というのは、ひょっとするといつカンチョーされるかわからない世界なのかもしれないですね。
そういう世界で生きる人にも安心してお尻をあずけられる居場所があるといいのだけど。
私の場合、家庭においては文字通りカンチョーの恐れがあり、時々居場所を失いますます。(息子よ!)

このあとこの本では、
何かに完全に身を委ねているとき、「本当の自己」=無防備に無理なく存在している自分があらわれ、それが脅かされるときに「いる」のがつらくなって「する」を始める、と話が続きます。
そうやって生き延びるのだそう。
身を委ねる。頼る。依存。そういうことが「いる」の秘密を握っている。
ひょっとすると、自立だけではうまく「いる」ができないのかもしれません。

「いる」と「する」

この本は、京大出の心理学ハカセが、悪戦苦闘の職探しの末に勤めた沖縄の精神科デイケア施設で「いる」に奮闘するお話です。
セラピーを「する」つもりで就職したのに、デイケアで求められることの大半はただ「いる」ことだった。
何もしないで「ただ、いる、だけ」だと、著者は「穀潰し系シロアリ」になってしまった気がしたそうです。
だから、働き始めた頃は、何かをしているふりをした。
何か「する」ことがあると、「いる」が可能になるからです。
でも本当は、何かを「する」には、ここに「いる」ことが前提になっていたりもする。

ただ「いる」ことの所在なさ、落ち着かない感じって、誰もが経験したことあるんじゃないでしょうか。
会社員のころ、何をすればいいのかわからないミーティングに参加している時って、「この時間はいったい何なんだ?」てモヤモヤすることがありました。
だから、とりあえず懸命にメモをとってみると、なんだかちょっと落ち着いたりして。
場合によっては、だんだん「この場にいるだけで対価発生するなら、ま、いいか」って、居心地よくなったりもする。
仕事においては、報酬の存在が「『する』に向かわねば!」という気持ちに大きく影響する気がします。

それから、携帯電話って、「いる」に「する」を持ち込む発明ですよね。
ただ「いる」ことに耐えられないとき、手元にスマホがあればあっという間に「する」があらわれる。
SNSをチェックするなり、お気に入りの動画を見るなり、仕事のメールを返すなりしていれば、なんだか間がもつ。
むしろ、こうしたデジタル機器によって、ただ「いる」時間はどんどん侵食されているのかもしれない。

また、デジタル化によって、居場所も変化しているように思います。
私たちは、リアルなお尻だけでなく、いろんなバーチャルなお尻も持っている。
それは、居場所の多様化とも言えるけれど、
それぞれのお尻の置きどころを見つけなきゃいけないってことかもしれないですね。

最近のお気に入りの居場所

さて、最近の私のお気に入りの居場所のひとつが、コインランドリーです。
噂のコインランドリー投資なのか、近所に新しくできました。
地味で暗いイメージでしたが、店内は明るく快適です。(地味は否めない!)

ここには靴用の洗濯機&乾燥機があるので、週末に息子たちの上履きを洗いに来ます。
洗濯に20分、乾燥に20分。
洗濯乾燥一体型ではないので途中で入れ替えなければならないけれど、専用洗剤で手洗いよりもピカピカの仕上がりです。

この待ち時間の40分が、私の「いる」時間。
ぐるぐる回る洗濯機たちの音を聞きながら、だいたい椅子に座ってぼーっとしてます。
なんとなく、スマホチェックするのなんてもったいないって気になるのが不思議。
午前中に来ると、ガラス張りの店内はポカポカと暖かく、うとうとうたた寝してしまうことも。

週末の我が家は、子どもたちが家にいて「ママ!」「ママ!」と私に「する」の要求を連発するのです。
それはたいてい「あれとってー」ぐらいの他愛ないものなんだけど、「ちょっと『する』はお休みさせてくれ…」という時、私はそそくさとコインランドリーへ出かける。

私の「する」を機械に預けられることは、居心地の良さの理由のひとつかもしれません。
正直、そんなマストな「する」でもないですけどね。上履き洗いなんて。
でも、「する」への対処という名目があることで、ずっと「いる」がやりやすくなる。
「いる」を取り戻した私は、きれいになった上履きとともに帰宅する。なんかいい感じです。

時間もちょうどいいんですよね。
洗濯機には「あと何分」という表示が出ます。
なんとなく「いる」に飽きても、表示を見て、「あと3分か‥」と「いる」に戻れる。
「あと60分」だと「ちょっと違うことしよかな」とそわそわしちゃいそうですけど。
20分✕2なんて、思ってたよりあっという間です。

それでも、なんとなく本を持って行ってしまうんですよね。読まないのに。
それから、なんとなく自販機で飲み物を買ってしまうんです。喉乾いていないのに。
チェリオの自販機で買った100円のホットミルクティーは、開けてしまったから仕方なく飲むんだけれど、「こいつ、私の所在なさへの不安を受け止めるために今ここにいるんだな」と思いつつ、別に「いる」ために何かに頼ってもいいじゃない、と開き直ったりもする。
そんなことを思いながら、ランドリーの片隅に落ちている誰かのボクサーパンツ(黒字にピンクの水玉)をぼんやりと眺める。
あとはただ「いる」だけで時間がすぎていく。

そういう「いる」時間があることにどういう意味があるのか、明確な答えはちょっとよくわかりません。
「する」よりも前に「いる」があるとか、誰かと「いる」ために自分と「いる」ことなんて考えると、なんとなく大事な気がしますけど。
でも何よりも、自分自身がただ「いる」を求めているときがあるなっていうのが私の本当のところで、いろんなものに頼りながらそれを叶えようとしているだけって気がします。

実はこの本、まだ前半しか読めていないので、最後まで読んだら何かつかめるものがあるのかもしれません!

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谷川俊太郎『みみをすます』

「本はトビラ」
よく耳にする言葉ですが、たしかにそのとおりだと思います。
本によって、開かれる世界、覗き見る世界、存在を感じられる世界があります。

そして、みみをすますラボの1枚目のトビラのお話。
やっぱり、この本のことを書かねばなりません。

谷川俊太郎さんの詩集「みみをすます」です。

今、奥付を確認して知ったのですが、初版は1982年6月30日発行だそうです。
私と同い年。私が生まれる1ヶ月ほど前に発行された本です。

「みみをすます」「えをかく」「ぼく」「あなた」「そのおとこ」「じゅうにつき」という6篇の詩が収録されています。

ABOUTにも書いたのですが、”みみをすますラボ”という名前は、この「みみをすます」という詩から名付けました。

昔からこの詩集が大好きで、絶対にこの名前を付けるって決めていた!という話だったらきれいなんですけど、実際はそうではありません。

約2年前、私がコーチングを始めたばかりの頃のことです。

コーチングスクールで学び始めたのはいいのだけど、コーチングは実践しないとできるようにならない。
スクールの仲間たちは、部下や同僚など、自分が働いている会社内で受けてくれる人を探して、練習兼コミュニケーション向上に役立てている人が多いみたい。
だけど、私はもうすぐ会社を退職する予定だし、会社の外でクライアントになってくれる人を探さなければならない。
そういうことが目の前の課題になっていた時期でした。

「ま、やるしかないし、なんとかなるでしょ」という気持ちだったんですけど、クライアント候補の方に声をかけさせていただくときに、名前があったらいいなと思ったんですよね。この自分のコーチング活動の屋号が。
だって、屋号があったほうが、相手の方も「ちゃんとしてる」印象を受けてくれそうです。
それに、自分をその気にさせるためにも、早めにそういう「それっぽいもの」があったほうが良い気がしたんです。

色々考えたと思います。といっても、実はあまり詳細は覚えていません。
「コーチング」って名前に付けちゃうのは、わかりやすいけど、他の人と被りそう。
そもそも、コーチングといっても、学び始めたばかりで一体どんなものなのか、どんなことができるのかすら、イマイチわかっていない。
どうやら「聞くこと」が大事っぽいし、それは私も大事にしたい気がする。
聞くこと、聴くこと、うーん…

そんなことを考えながら、忙しい日々を過ごしていました。
秋から冬に移る頃でした。枯れ葉が舞っていたのを覚えています。
朝、子どもたちを保育園に送っていった帰り道。前後に子どもを乗せられるごっつい電動自転車で、目黒川沿いの下り坂をすいーっと滑り降りていた時。
ふと、「”耳をすます”はどうだろう?」と、考えが降ってきたのです。

今、書きながら気づきましたが、これ、絶対にスタジオジブリ「耳をすませば」の影響を受けてますね。坂道と自転車だなんて、完全に聖司くんじゃないか…

でも、その時はジブリの影響には気づかずに、家に帰ってから(在宅勤務だったので)「耳をすます」って検索したんです。
そしたら、この本が出てきたんですね。

これが、この本との出会いです。

検索結果で、この本のカバーイメージを見た時、「これに決めた、これがいい」と思いました。
もちろん、大至急購入しましたよ。
そして、実際に詩を読んで、「これだ」という確信を強めました。

“みみをすますラボ”は、この詩がありきで生まれた名前ではないけれど、この詩があったから決めた名前です。
そして、この詩の存在は、その後のみみをすますラボと私の進む方向性にも大きく影響を与えていると思います。

今でも、この本に触れ、この詩を読むと、
大きなものに背中を押されて、「このまま進めばいいんだ」と言ってもらえている気がします。

この本は、みみをすますラボの1枚目のトビラです。
今、改めて振り返ってみて、このトビラとの出会いに心からの感謝の気持ちでいっぱいです。