このブログでは、自分の好きなものについても書いてみたいなと思ってます。
でも、私には、自分が何かを好きと言うことをしんどく感じた時期がありました。
たぶん母親になってから。自分の時間や好きなものに触れる時間が少なくなっていたころ。
元来、何かを好きになると徹底的に愛とエネルギーを注ぎがちな方だったので、その変化からくる戸惑い。
その時感じていたのって、「自分なんかが好きと言うなんて…」ってことだと思います。
世の中には、自分よりもそれを好きな人たち、詳しい人たち、夢中になっている人たちがわんさかいる、とか。
その好きだと感じる対象に対して、好きではあるけれど昔ほどの情熱はないかもしれない、とか。これからもいつまでも好きだとは限らないよね、とか。
要は、他者と比較し、過去に縛られ未来を恐れていたわけです。
好きに対して、変に真面目。
そんな私に、詩人・最果タヒさんのあるブログが刺さりました。
このブログで最果さんは、書き手の立場から
- 書き手によって書かれるものの変化は、自然発生的に起きるものである。
- 一瞬でも好きだと思ってくれたことは、奇跡的な交差だと思っている。
- 「なんか好きじゃないかも」ってなった時は、気にしないで。
ということを書いていらっしゃいます。
これを読んで、私は「そうか、これでいいのかー」と許されたような気持ちになりました。
自分の中でぐるぐる思っているようなことが、自分の外側にある言葉になった時に、初めて素直に受け止められることがあります。
そして、それを誰が言っているのかも大事なことだったりします。
たぶん、表現者が「ええんやで」って言ってくれてことが大きかったのかなと思います。
私が好きになるものは表現に関わるものが多いし、例えば一杯のきつねうどん(一番好きな食べ物)でも、誰かが心をこめて作っているのであれば、それは表現物であり、誠実に関わりたいと思ってしまう。
だから、良いファンでありたいという気持ちが強いし、同好の士にも良いファンであると思われたいような気がする。
でも、好きっていうのは、一瞬の交差なのです。しかも、奇跡的な。
その交差が生まれたということこそが、重要であり、絶対であり、誰にも、自分にも否定できない事実なのです。
今も昔もずっと好きっていうのは、それに触れる度に交差が生まれ続けているということだから、こりゃもうとんでもない奇跡ですね。
そういう存在があることに、心から感謝しましょう。
何もかも好きでなくても、最新もすべて好きでなくても、相手の変化を受け入れられなくても、「好き」と思ったときの「好き」は、ずっと永遠です。
そういう想いで、好きなもののことを書いていきたいと思っています。