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映画『悪は存在しない』をみて

我が家のテレビは子どもたちに占領されているので、平日の朝はたいていEテレを片耳でなんとなく聴きながら支度をしています。

マチスコープ」という番組のエンディングテーマ曲は、とてもとても耳に残る。

われら サルもく ヒトか の ヒトぞく
かりして ドンドングリひろって マチつくる

マチスコープ エンディングテーマ

サル目は霊長目ともいって、その上の分類は哺乳綱。ヒト科にはヒト属のほかにオラウータン属やゴリラ属、チンパンジー属もあるらしい。ホモ・サピエンス以外のヒト属はネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどなど。(Wikipediaしらべ)

ふと気づいたら、息子たちもこの歌を大声で歌っているし、私も歌っている。
音楽はKIRINJIだそう。さすが。
博物館で縄文時代の展示を見た5歳児が、「うたとおんなじだ!」と興奮してました。

みいつけた!」で『みんなおんなじ』を聴けた日はラッキー。森山直太朗さんの曲です。

みんなちがって みんなおんなじ
みているぼくも どこかおんなじ
みんなちがって みんなおんなじ
きみがわらえば ぼくはおんのじ

『みんなおんなじ』 作詞:森山直太朗・御徒町凧

この曲は大好きで、やっぱりしょっちゅう口ずさむ。
それぞれに違う「うたいたいうた うたうよろこび」や「ねむりたいとき ねむるしあわせ」があるのだろうし、そういう喜びや幸せを持つ存在であるという点でおんなじなのだと思う。たぶん人間に限らずそうなのだと思う。

みんなおんなじなのは喜びや幸せだけでなく、怒りや悲しみ、苦しみを持つ存在であることもそうなのだと、映画『悪は存在しない』を見て思いました。

監督:濱口竜介×音楽:石橋英子。
映像と音楽が生み出す、美しく不穏な緊張感に飲み込まれて揺さぶられて、
忘れていたけど生まれる前から私に刻まれていた、圧倒的な自然への畏怖を思い出した気がしました。

『悪は存在しない』ってタイトルの力が強くて、
「あれが悪だ!」って言える存在を探し出そうとする自分を感じながら見ていました。
そういう存在があれば、非難したり排除したり逃げたりすることができるから。
少なくとも自分自身のことは、悪なるものと切り離すことができるから。
そういうスッキリしたい、わかりやすくしたい、楽になりたい気持ちがあるなぁと思います。

「悪は存在するのか?」って、すごく難しい問いですよね。
そもそも「悪とは何か?」「存在するとはどういうことか?」みたいな哲学的な問いが求められる。
そう考え始めると全然わけわからなくなっちゃうんだけど、
でも、たぶん絶対的な悪みたいな存在はないんじゃないかと思います。
同様に絶対的な善も存在しない。
善とか悪とかって様々な関係性の中で立ち現れてくるもので、誰かにとっての善であると同時に他の誰かにとっての悪でもあり得るような、すごく複雑に絡まりあったものなんじゃないかなと思います。
たとえば食物連鎖のような。
だから、誰だって悪の可能性を抱えた存在で、悪を生じさせたり加担したりしながら生きている。それは善についても同じ。
そういう意味で、私たちはみんなおんなじなのかもしれません。

一方で、立ち現れてくる悪には、過ちと呼ぶべきものもある。
無知だったり、無関心だったり、想像力が足りなかったりすることで、誰かの大切なものやその存在自体を、自分のものさしで「些細なもの」として踏みにじるような行為やふるまい。
誰かを踏みにじっている人も、実は誰かに(何かに)踏みにじられていたりする。
ひょっとすると、踏みにじり踏みにじられることに慣れすぎて鈍くなっているのかもしれない。
そんなつもりはなく、無意識にやってしまっていることも多々ある。
だから、存在を踏みにじられるものの怒りに触れると、驚いたり、揺らいだりする。
その揺らぎに対する反応はみんなちがうだろうけれど、過ちを受け入れて変わっていくチャンスでもあるはず。(と思いたい。)
そういう踏みにじられるものの怒りに満ちた映画だったように思います。

学んで変われる存在であることは希望だと思います。
少しでも過ちに気づけるよう、ちょっとでもマシになれるよう、賢くなりたい。
そういうとき「みんなちがって みんなおんなじ」はすごく大事な視点だし、私にとってコーチングをやることはそういう学びのひとつなのかもしれません。

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「自分への誇りを持てるように育ってほしい」

4月。新しい年度、新しい学期のはじまりの時期。
変化を追いかけて、新たな環境や動き方に一生懸命馴染んでいるうちに、あっという間に1ヶ月が過ぎていきました。

この4月、私には大きな変化はないのだけれど、今年度から大学で博物館学芸員の資格課程を追加で取り始めました。
とりあえずテキストを読むところから始めたものの、これが思いのほか時間がかかる。3冊を読み終えて、ようやく適度に読み飛ばせるようになってきました。
新たなことに慣れないうちは、どうしても慎重になりがちなもの。何が大事で何はそうでもないのかがわからない不安から、すべてをきちんと押さえなきゃいけない気がしてしまう。そういう時期は、気持ちのうえでの負荷や時間もかかるし、よくわからないから楽しくもないし、しんどい気持ちをじっと我慢して進めていく。
そうしているうちに、「ここはポイントだ」とか「ここは適当でいいな」とか「必要になったら読み返せるようにここに書いてあったことだけ覚えておこう」といった強弱の付け方がなんとなくつかめてくる。
もちろんそのやり方は引き続き調整が必要だけど、ここまで来れば、なんとなく進めていける気持ちがわいてくる。
じたばたして、なんだか疲れた1ヶ月でした。

もう1ヶ月以上前のことだけど、3月に、東京・上野にある国立西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」という企画展を見てきました。
弓指寛治さんのインスタレーションが見たくて。(本当にすばらしいです。見逃してはいけない!会期は5/12まで。)

その企画展の展示室に入る前のロビーのような場所では、壁に設置されたモニターに、30分ほどのインタビュー映像が流されていました。
それは「補遺:保育士へのインタビュー」というこの企画展に参加されている田中功起さんの作品の一部なのだけど、私は展示室にも入らず、腰を据えてこの映像に見入りながら、なんだかぽろぽろと泣けてきてしまいました。
保育士さんに保育への思いや理想と現実について自由に語ってもらうという内容で、たしか3人の、異なる園で働かれている保育士さんがお話されていました。
シンプルで誇張のない、静かで記録的な編集だったように思います。
その保育士さんたちのことばを受け止めながら私のなかで起きていたことは何だったのか、今でも正直よくわからないのですが、見終わった後、ただじんわりと「ケアされていたのだなぁ」という思いが残りました。
特に、ひとりの保育士さんが「自分への誇りを持てるように育ってほしい」と語ったときに、それは子どもたちへの思いであると同時に、親への思いでもあり、保育に関わるすべての人たちへの思いでもあるように伝わってきました。

私の長男が0歳で保育園に入園したのは2015年の4月のこと。
今年で次男が年長になったので、この1年は、保育園とともに生きた私の10年間のラストイヤーになる予定です。
今でこそかなりいい加減に暮らしていますが、最初は何年も本当に精一杯でした。
手の抜きどころなんてわからなかったし、何も適当になんてできなかった。
ずっと一生懸命で緊張していたし、自分が疲れていることに気づかなかった。
ワンオペでしょっちゅう身体を壊して、40度を超える熱が出ても、「保育園に子どもを連れて行きさえすれば、仕事を休んで数時間は眠れる」と必死で送迎していた。
だから、東京を離れて今の場所に引っ越したとき、保育園を離れることが一番つらかった。
この場所、この人たちを失っていったいどうやって暮らしていけばいいのか、途方にくれるほど心細かった。
それぐらい、保育園はずっと私の支えであり続けてくれました。

「自分への誇りを持つ」ってどういうことなのでしょうか。
当時の私は、自分への誇りを持っていたのでしょうか。
決して私は「自分なんて…」と、なにかと卑下するタイプではないように思います。
でも、そういうことじゃなくて、何ができるから、何を持っているから、何を成し遂げたから、そのことを誇りに思うというのでもなくて、もっともっと手前のところ、ただ生きているといったそれぞれの事実のもとに、誇りは存在すべきもののような気がしています。
それは当たり前のようでいて、とても脆く、見失いがちなものなのかもしれません。
今の私は、私の息子たちは、自分への誇りを持てるように育っているのでしょうか。

あのインタビュー映像を見ながら私に起きていたことは、私や私たちの誇りを支えようとしてくれた人がいたのだなという気付きによる衝撃と、行き場のよくわからない感謝による混乱なのかもしれません。
誇りを持たなくてもよい人なんていないのだと思います。
でもそれは、きっと一人では難しいことなのかもしれません。
だからこそ私はコーチングをやっているのかもしれないなと、ふと思いました。

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インタビューを受けて気づいた、過去を振り返って話す価値

インタビューのことを書いておこうと思っているうちに、どんどん時間が経っていく…!

お知らせにも書きましたが、「企業会計」という雑誌にインタビュー記事をご掲載いただきました。

「企業会計」2024年4月号(中央経済社)

「経理の『リスキリング』」特集ということで、昔に上司だった方(この特集の解題と座談会の司会をされています)からお声がけいただいて、「『企業会計』にこんな私でいいのならば…」と、怖気づきながらお話させていただきました。
私、会社員時代は(一応)経理関係の仕事をしていたんです。

編集部の方から1時間ほど、私のキャリアについてインタビューをしていただきました。
わかりやすく誠実に記事にまとめていただいて感謝です!

かれこれ20年の社会人経験なので、もちろん1時間のインタビューでは語れないことの方が多いし、語らないこともあるし、そもそも忘れていたり記憶が改編されていたりすることもたくさんあります。
それでも、この機会に振り返って、話をして、さらに編集された記事として読んでみることで、改めて自分のキャリアをすっきりと一本筋の通ったストーリーとして受け取ることができて、我が事ながら「なるほどなー」と感心しました。

こういうことって、やはり聞いてくれる相手や機会があるからこそ話せることだと思います。
だって、昔の話ですもの。
せわしない日々、眼の前のことで精一杯で、なかなか思い出している余裕がありません。

今回、お話しさせていただいてよかったなと思っていることのひとつに、自分のキャリアをちゃんと「昔のことだな」と感じられたということがあります。
変な未練とか、過去の栄光とか、逆に黒歴史とか、そういうしがらみ的なものがなく、昔の自分のこととして、適切な距離感をもって受け止められている。
昔の自分がいるから今の自分がいるという、つながりもちゃんと確認できている。
そういう健全な状態を確認できたことは、なんだか嬉しいことでした。

それから、インタビューなので、質問していただくことで気づくことがあったのもよかったことです。
たとえば「全く未経験のしごとをすることになったとき、自分にはできると思ってたんですか?」というようなことを質問されて、「自分にできるかできないか、なんてことは考えてなかったな」と思い出したんです。
若かったから、怖いもの知らずだったから、守るものがなかったからだろうけど、それって今と何が違うんだろうとも思います。
今だって、まっさらな気持ちで未知のことにぶつかっていっても、実はそんなに失うものはないのかもしれない。
そういうことを思いました。

最近の私は、新しくやってみたいことにすごく前向きな気持ちでいるのだけど、その背景にはインタビューでお話をさせていただいたことの影響があるのかもしれません。
自分の過去を振り返って語ることの価値を再確認した体験でした!

もちろん、私のインタビュー記事もリスキリング特集のほかの記事も、必要な方に届いて少しでもお役に立てることを願っています。

あなたのこれまでの話を聞かせてください!

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ビエネッタをスプーンに3すくいだけ。

2月。どうしても体調を崩しやすい時期ですね。

最近は次男(5歳)の調子がいまいちで、昨日も保育園からの連絡で早めにお迎えに行きました。
小さな子どもの不調の難しさのひとつに、自分のしんどかったり痛かったりする状態をことばでうまく伝えられないことがあると思います。
昨日の息子は、微熱だけどぐったりと動くことも難しい状態になって、「朝は元気だったのに、どうしてしまったんだろう」とわたしも先生たちも困惑していたのだけど、帰宅してから耳だれが出たことで中耳炎だとわかりました。
「耳が痛かったの?」と聞くと「うん」と答えるんだけれど、それを自分からことばで表現するのはまだ難しいようです。
そのあたりが伝えられるようになると、周りの大人としてはかなり助かるんだけど。
でも、周りの人に自分の異変を気づいてもらえて、心配して世話を焼いてもらえる。
そういう経験は、彼にとって大きな意味のあることなんじゃないかと思っています。

とはいえ、最近はあまりに不調が続いていて、
本人はもちろんしんどいだろうけど、お世話をしているわたしもしんどい。

軽くて長い風邪が治ったと思ったら、一瞬だけ高熱の出る新たな風邪をもらい、それらの影響で中耳炎になるという具合。
先週から、丸一日保育園に通えた日が一日もない。
回復期にはビデオを見ながら多少の時間はひとりで過ごすこともできるようになったので、仕事をリスケしなきゃいけないことは以前よりも格段に減ったけれど、急性期はそれどころじゃないし、小児科にも連れて行かなきゃいけない。
何ができているという感じじゃないのに、気忙しくて疲れる。しんどい。

そういう時、「インフルエンザじゃなくてよかったじゃない」とか「1年前よりは楽になっているよ」とか、他のもっとしんどい状況と比べて慰めるような思考が出てくることがあります。
さらには、「子ども3人いる人と比べたら全然大したことない」とか「被災した人たちより恵まれている」とか、もっとしんどうそうな誰かの状況と比べるような思考が出てくることもあります。

そういうのが出てくると、もう黙ることしかできない。
だって、それ自体はたしかに正しいように感じる。
そういうのを出されると、それ以降の話が「でもでもだって」になる気がしてくる。
そんな愚痴めいた話、甘ったれたような話はするべきではない。
そう深く刷り込まれているから、それ以上は口をつぐむしかない。
そうやって我慢することを、いつからか学んでしまっている。

でも、本当にそうなのでしょうか。
今、わたしが感じているしんどさを、他のしんどさと比べる必要があるのでしょうか。
今ここに、わたしのしんどさがある。
それで十分なのだと思います。

きのうの夜は大変だった。
夜遅くに、次男が吐いたのだ。
不思議なもので、そういう時は直前に目がさめる。
目がさめたところで、「あ、はじまる」と眺めながら、受け止めることぐらいしかできないのだけど。
ひとしきり通り過ぎてからが本番で、
どろどろになった息子を清めて着替えさせて、
どろどろになった自分も清めて着替えさせて、
どろどろになった寝具や衣類を洗濯する。
とっくに日付は変わっていて、
わたしはこのまま眠ってはいけないような気がして、
冷凍庫に隠しておいたビエネッタをスプーンに3すくいだけ食べた。
朝目覚めると、ケロッとした顔をした息子は
今日も美しく、愛おしかった。

これは、夜中に息子が嘔吐した次の日のわたしの日記。

ビエネッタをスプーン3すくい分のしんどさがあり、
ビエネッタをスプーン3すくい分の慰めがあった。

ただそれだけを、受け止めたらいいのだと思います。

ビエネッタカップってありがたい!

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よく動いた2月の上旬、そして「読む」こととの距離

2月の上旬は、わたしにしてはたくさん動いていたのだけれど、先週になってぴたりと停止しました。

よく動けているときは、「動くぞ!」と思っているわけではなく、流れに乗れているとき。
ぶつからないようにあちこち目配りしながら、目や耳やこころやからだをひらいて、すなおに流されていたのだけれど、
一気に暖かくなって飛んできた花粉に、からだがびっくりしてあちこち閉じてしまったので、
とまったというよりも、流れを見失ったような気持ちがしています。

でも、そろそろ立ち止まるにはよい頃合いだったようにも思います。
2月上旬の2週間で、東京、大阪、青森で、「本阿弥光悦の大宇宙」展(東京国立博物館)、建立900年特別展「中尊寺金色堂」(東京国立博物館)、「魔除け-見えない敵を服でブロック!-」展(文化学園服飾博物館)、「みちのく いとしい仏たち」展(東京ステーションギャラリー)、「円空―旅して、彫って、祈って―」展(あべのハルカス美術館)、「松山智一展:雪月花のとき」(弘前れんが倉庫美術館)、「奈良美智: The Beginning Place ここから」展(青森県立美術館)、「美術館堆肥化宣言」展(青森県立美術館)など、たくさんの展覧会を見ました。
いろいろな刺激に頭がぱんぱんです。

実は、ここまで書いて一時保存してから、あっという間に1週間がたちました。
今となっては何を書こうとしていたのかもよくわからないのだけれど、再びここから書いてみようと試みています。

わたしにとって「よく動けている」感覚は、本を読んでいるときの感覚に近いように思います。

本を読んでいるときには、その本の持つ流れに乗って、頭の中に描いたその本の世界のなかでいろいろな経験をしている。
本を読み始めるときは「読むぞ」と気合いをいれることもあるけれど、読み進めるうちにそんな気合いは頭から消え去って、ただその「読む」という行為の中にいる。
しばらくすると、どうしても目が疲れたり集中力が切れたりして、読む行為から離脱する。

そんな感じ。

離脱から「読む」に戻るには、再び「読むぞ」の気合いを召喚するんだけど、
その気合いに必要なエネルギーは、その本なり「読む」という行為なりとの距離によって変わってきます。
つまり、離れすぎなければ、戻りやすい。

もし、離れすぎてしまったときには、その距離を縮めるところから始めなくてはなりません。
「読む」ことと仲良しであること。それが肝要です。
高校生のころに覚えた、”keep in touch with”という英語のイディオムを思い出しました。

そういえば、今年に入ってから「読む」こととはかなりいい関係を築くことができていて、そのことは日々の充実感につながっています。
関係修復に取り組みだしてから、ここまで4年ほどかかりました。
ああ嬉しい。

自分にとって大事なことを、大事にできていること。
シンプルな幸せの大原則。

そうだ、今年は「かく」ことと仲良くなりたいんだった。
旅とか展覧会のこととか書けたらいいですね。
うーん、でもちょっと距離が離れすぎている気がする。
もうちょっと仲良くなるところから始めてみようかなと思います。

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つり糸からつらつらと「ことばのつり糸を垂らす」

先日、いしいしんじさんの「書こうとしない『かく』教室」という本を読みました。
今年は「書く」ことをがんばろうかなと、気軽な気持ちで積読から引っ張り出して。

すると、予想もしていなかったものを受け取ってしまって。
じゃあなにを受け取ると予想していたんだと問われると、ちょっと困ってしまうんだけど、
とにかく不意打ちで、ちょっとした衝撃だったのです。

この本は、「書く」ことだけにとどまらない、「生きる」ことと「ことば」についての本で、感動して涙ぐみながら、夢中で読んでしまったのです。

そのなかで、「あぁ、これはずっと覚えておきたい」と思ったところがありました。

それは、この本でもいちばん最後の「釣り糸を垂らす」というところです。

いしいさんは、「ことばとは、過去現在未来の記憶をひっかける、釣り針みたいなもの」だと言います。
「何もないと思っていたのに、じつはこんなにいっぱい沈んでいたのか、と、あることばを自分のなかにひたすだけで、ふわっと内側からわかって」くる、と。

そして、「どんなことについても、自分のなかにことばを垂らしてみること」を勧めます。
「すると、ほぼ必ず、それまでの自分が思ってもみなかったなにかがくっついてきてくれ」るそうです。

最後の最後の文章を読み終わってすぐ、「ここには線を引いておかなくては!」と、大急ぎでペンを探しました。
その文章がこちらです。

ぼくたちはずっとことばを使って、ことばを交わして、ことばでいろんなものを自分のなかへ収めていきます。それはいつしか、ことばの形をほどいて、意識の水底へ、ゆっくりと沈んで目に見えなくなります。でもそれは消えないんですよ。目に見えない、ことばになっていない記憶や未来からの光が、じつはぼくたちの生を底から支えている。「かく」ことは、自分のほんとうの生を、ことばのかたちで取り戻すことにほかならないのです。

いしいしんじ「書こうとしない『かく』教室」

「ああ、これは本当のことだ。大切なことだ。」と思いました。

これは、わたしがコーチングをやりながら、感じていること、信じていること、でも、うまくことばにできていないことにとても近い気がします。

話をしていて時々感じる、ほわっとあたたかい、なにか大切なものが引き上がってきた感覚。
その正体はまだよくわからないけれど、その人のなかにこれがあるということに大きな意味があるのだという確信。

「かく」ことと「はなす」ことという違いはあるけれど、
わたしにとってコーチングとは、誰かといっしょに、相手のなかにことばの釣り糸を垂らしてみて、そのひとのなかに確かにある、「その人の生を支えている」なにかを、ことばのかたちで取り戻すことではないかと思います。

そういう目に見えないなにかを、自分のなかからわかっていくこと。
「目標」という目に見えていることばよりも、もっと奥深くに沈んでいるものにふれて、そのかたちを知ること。
そのこと以上に、コーチングの目的である「クライアントが自身の可能性を公私において最大化させる」ことなんてあるのでしょうか。

わたしは考えます。
そういうことをいっしょにする相手として、コーチはどういう存在であればいいんだろう?

たぶん、「よい釣り仲間」なんじゃないかなと思います。
「このエサだとどうかな」とか「今日はずいぶんと水が澄んでいるね」とか「むむ、このにおいは雨がきそう」とか、
そういうことを言いあいながら、いっしょに釣り糸を垂らして、なにかが引き上げられるのを待つ。
そしてあがってきたなにかを、いっしょに眺め、いっしょに驚き、いっしょに探る。
なにより、「よし、釣りをするぞ」という気分をいっしょに味わう。
そういう相手でがコーチなのではないでしょうか。

どうだろ?ちょっと無理あるかな?

ともあれ、わたしは、わたしみずからも自分のなかにたくさん釣り糸を垂らしていきたいと思っています。
その釣り糸になにがくっついてくるかはわからないけれど、それをことばのかたちにして受け止めてみたいと思っています。
それは必ずしもいいものばかりではないかもしれないけれど、それがわたしの「生」というものなのでしょう。

そういう思いを刻んで、ブログのタイトルを「つり糸からつらつらと」と変えてみました。
果たしてつらつらと出てくるのかどうかはわかりませんが、期待をこめて!

ちょっと遅くなりましたが、2024年の抱負にかえて。

本年もどうぞよろしくお願いいたします!

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