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BLOG 芸大生日記

美術資料の読み方を学ぶと手に入ることは?

この春から大学生になりまして、課題やら試験やらに取り組む日々も3ヶ月目に突入しました。
先日、あまり乗り気じゃなかった美術資料の読み方を学ぶ講義を受けることで、知ること・学ぶことの意味を考える機会がありました。

はじめてのスクーリング

先日、はじめてのスクーリングがありました。

通信制大学での学びは、自宅学習とスクーリングで構成されています。
スクーリングとは、簡単に言うとライブの講義のことです。
だいたい土曜の午後と日曜に、1.5日間の集中講義の形で開催されます。
キャンパスで行われることもあれば、Zoomで遠隔開催されることもあります。
講義の内容によっては、京都の寺院や庭園などに実際に行くフィールドワークもあります。

先日はZoomの遠隔講義でしたが、学友と一緒に講義を受けていると「あぁ、大学生になったんだなぁ」という気持ちになるものですね。

受講したのは「美術資料の読み方」の日本・東洋編ということで、こんなのを読み解いてみましょうという講義です。

《伊勢物語絵巻》初段(和泉市久保惣記念美術館蔵)
法隆寺金堂 《釈迦三尊像》 光背銘文

左のミミズみたいなのが変体仮名文字で、右の拓本は漢文です。

漢字は仏教とともに朝鮮半島経由で中国から入ってきました。
だから、そもそも外国語なんですよね、漢文は。
もともと日本国内では日本語が話されていたわけなので、その日本語の音に漢字を当てたの仮名文字ですね。要は当て字です。
当て字だから、ひとつの音に対して複数の漢字がある。
たとえば「あ」という音を表すのは「安」でも「阿」でも「愛」でも「悪」でも良くて、そのうち明治以降の学校教育で用いられなくなったものが変体仮名です。
その変体仮名を含む仮名文字で、ミミズのようにニョロニョロと崩されて書かれているのが、よく絵巻物とかにあるあれです。

漢文も変体仮名も、当然今の日本語とは違うので、読み方によって解釈が変わってくる。
だから、研究をする人は一次資料の基本的な読み方の習得が必要ですよという話です。

正直、「マジか~!!!」って思いますけどね。なんたる面倒臭さ。
でも必修なもんで。
意識が飛びそうになりながらも、とりあえず素直に講義を受けてみました。

美術史を学ぶことの意味

2日目の講義で主に扱われたのは、聖徳太子と法隆寺についてでした。

聖徳太子は謎の多い人物として知られています。
没年に関する資料も、『日本書紀』では621年、『上宮聖徳法王帝説』という聖徳太子の伝記を集めた資料によると622年と残されています。
様々な資料を検証した結果、今では622年説が有力だそうです。
いや、どっちでもわたしの人生には関係ないしって気もしますけどね。(先生も何度もそんなこと言ってた…笑)

法隆寺には「再建非再建論争」という、日本史研究界隈では非常に有名な論争があります。
現存の法隆寺は最初に建てられたものなのか、それとも焼失後に再建されたものなのか、明治以降に東大の先生方を中心に喧々諤々の論争があったという。
今では発掘調査の結果もあって再建であることが判明しているそうですが、こちらも正直、そんな昔のことにはあまり興味を持てない気がしてしまいます。

そう、個別の事象はわたし自身には直接的な影響も関心もないように思います。
正直な話、わたしはそこまで美術史の細かいところに興味あるわけではないのです。
(芸術理論や美学に興味があって芸術学コースというこのコースを選びました。)
だから、この講義を受けるのはなかなかしんどかったのですが、先生の話を聞いているうちに、じわじわと感じてきたことがありました。

それは、「なんだって疑っていいんだな」ということです。

たとえば、『日本書紀』は日本最古の勅撰国史、つまり、天皇の命によって編纂された正統な歴史書です。
『日本書紀』を否定するなんて、時代が時代なら生命にかかわることだったはずです。

法隆寺だって、過去の権威のある人たちによる定説があります。
みんながあたりまえにそれを信じて、その定説を前提に色々なことを考えています。
覆すのは並大抵のことではありません。

でも、なんだって疑っていいのです。
疑うことでひらける新たな可能性があるかもしれないのです。

そこには、やみくもに全てを疑うのではなく、
自由と可能性を信じるからこそ「あたりまえ」を疑うアカデミックな姿勢があるのだなぁと
なんだかちょっと感動したのでした。

リテラシーは「あたりまえ」を疑う力

では、どうすれば「あたりまえ」を疑うことができるのでしょうか?
何があれば「あたりまえ」を疑って新たな可能性をひらいていくことができるのでしょうか?

わたしは、そのために必要なもののひとつがリテラシーなのだと思います。

リテラシーとは、簡単に言うと読み書き能力のことです。
辞書には「コンピューターや情報を、うまくあつかう知識・能力」ともあります。

わたしは、最初の大学(20年前!)でメディアの勉強をしていたのですが、そのころ耳にタコができるほど「メディア・リテラシーが大切!」と言われてきました。
メディア・リテラシーとは、メディアの情報を主体的に読み解く力というような意味です。

たとえば、わたしはアラビア語はさっぱりわからないので、誰かに「このアラビア語は『ゆきこ』っていう意味だよ」なんて言われると、それを鵜呑みにしてしまいます。
そして、それをお名前シールにして持ち物に貼り付けちゃうかもしれません。
でも、実はそれは全くの間違いだったり、とんでもなく恥ずかしい意味をもった字だったりすることもありますよね。(たまに見かける変な漢字Tシャツのように)
リテラシー=読み解く能力がなければ、それを検証することすら難しいのではないでしょうか。

リテラシーがなければ、本当の意味で信じることなんてできないんじゃないかなとわたしは思います。
自分で読み解くことができなければ、言われたことをそのまま盲信することしかできません。
本当にそうなのかな?と疑って、検証して、やっぱりそうなのだと確信するプロセスがあってこそ、心から何かを信じることができるのかもしれません。

だから、変体仮名も漢文も自分で読み解く能力が必要なのですね。
もちろん、そういった対象を研究するならば、の話ですが。(わたしの場合、どうかな…??)

「わたしは、わたしに対するリテラシーを十分に育んでいるだろうか?」

さて、視点をコーチングにうつしてみましょう。

そうすると、コーチングってリテラシーを育むことなのかもしれないという気がしてしました。
自分と世界を読み解いて、うまく付き合うためのリテラシーです。

いま眼の前にあることだけが「あたりまえ」なのではなく、違う見方や考え方、新たな解釈の可能性があること知ることで、リテラシーは強化することができます。

知ることは、よりよく信じることにつながります。
自分と世界をよりよく信じることができれば、その先の人生の可能性は大きくひらかれていくのではないでしょうか。

「わたしは、わたしに対するリテラシーを十分に育んでいるだろうか?」

その問いをいつも胸に抱いて生きていきたいなと思った、スクーリングの週末でした。

あなたは、あなたに対するリテラシーを十分に育んでいますか?

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